2013年1月14日月曜日

第一回『対話』(2012年12月)備忘録

去る、2012月12月12日(水)に、YCC(ヨコハマ創造都市センター)で行われた、
YCCスクール事業、第一回『対話 ~都市イノベーションを廻る思考』は、
横浜国立大学都市イノベーション研究院の二人の先生
藤原徹平先生(建築家)と榑沼範久先生(芸術・哲学)のお二人による
「今、都市は文化を生み出すのか」をテーマにしたものでした。

大変面白い話でしたので、その備忘録をお送りします。
なお、基本的に、その時の言葉をそのまま載せ、解説はあまりしませんので、
断片で各自いろいろお考えください。

以下、備忘録
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「そもそも、クリエイティビティが求められていること自体が、何かの課題を示している。」

『イノベートは最後の手段、
イノベーションの名のもとに、
どんなひどいことでもなされている』(チャールズイームズ)

「(イームズによれば)、デザインとは、『ギフト』である。
  デザインする相手が必ずいる、
  この人に座ってほしいと思うことからデザインが生まれる。」

「オタクは内向的世界から生まれている。
 原宿(秋葉原)がサブカルをつくったとはいってほしくない。
 都市がサブカルを誘導したりはしていない。都市と文化は関係ない。」

「都市は国家や社会より長く、巨大である。」

「21世紀は都市の時代なのか?
ずっと都市はテーマなのだから、常に都市の時代なのではないのか?」

「きわめて活動的な多数の人々の群れの中で、
 生活の便宜を何一つ欠くことなく、しかも最も遠い荒野にいるのと同様な
 孤独な隠れた生活を送ることができたのである」
(デカルト『方法序説』より)
→アプルトンの「見られずに見る」(=眺望)のごとく、都市の原点を感じました。

「ジョンラスキンの『建築の七灯』や世界遺産憲章による都市は、
 一歩間違うと、人間活動をDocument的に保存してしまう。
 人間活動そのものがDocument化され、読み物として優れた時には保存されるが、
それは止まった都市である。
エディンバラは、ドラゴンクエストのように、一回目は面白いが、二回目、三回目はつまらない。」

「坂口安吾的論理では、『日本文化史観』(社会学的史観)の通り、
『今、こういうことがおきている=素晴らしい』(例えば、東京拘置所などの高評価)
しかし、素晴らしいと思うものは、「必要性あるもの」であり、やむにやまれぬものしか認めない。
文学のふるさと。突き放されたところからしか生まれない必要性。」

「別府で感じられた、中心市街地が荒廃していても、住んでいる人は困っておらず、
  みな郊外に住んでいる。
 Shortcake House に住み、ショッピングモールで買い物して、ファミレスでご飯を食べる、
 これがとても幸せである状況でまちづくりを進めることのお仕着せ感。」

「とんでもない(ダメな)マンションをよくすることには興味がなく、
 次に何を「足す」かに興味がある。」

「今の経済社会は、無理に都市にクリエイティビティを求めており、
 手段を結果にしてしてしまっている。」

「サヴァンナと動物園、日本の動物園化とコンビニ化」

「関東大震災時には、今和次郎が見出すような、
 キノコのように生まれいづるバラックがあった。
 しかしながら、東日本大震災の被災地に、バラック一つ生まれない不思議な現状…。」
→坂口安吾の「必要性あるもの」や、今和次郎のバラック、
 キノコのように勝手に沸き上がるもの、川俣正の展示のような浸食するもののように、
 自然なものが湧き上がるのが都市の根源だとしたとき、
 自然に湧き上がらない場所は、都市の条件をもたない場所なのだろうか、
 はたまた、気長に待つべきなのだろうかと思いました。

「マンハッタン全体は、超高層ビルが揺れることでシンクロする音叉である」説…。

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以上が備忘録でした。

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